▼ 店主「個人ブログ」内の〈拙の美 (美学)〉からの転載。(元記事が削除されるのを恐れてのバックアップ)▼
先日、 「茶碗の中の宇宙 -樂家一子相伝の芸術‐」 展 を見学して、
宇宙のこと を思い出した。美学のこと を思い出した。
このブログがほったらかしだった ことを思い出した。
*
まず、展に少し触れると、
公式ブログの方に http://www.bansui.jp/diary-detail/127?category=5 「一子相伝」 については書いたが、
(また、作品リストを 同じく公式ブログの http://www.bansui.jp/diary-detail/129?category=2 に書いたが)
重要文化財・利休所持 等のそうそうな顔ぶれが集う
(ざっと挙げても…
長次郎の黒樂 「大黒」・「万代屋黒」・「ムキ栗」・「禿」 ・「シコロヒキ」・「あやめ」・「俊寛」・「面影」・「杵ヲレ」 ・「太夫黒」・「本覚坊」・「万代」と 赤樂 「無一物」・ 「白鷺」・「太郎坊」・「次郎坊」・「一文字」
ノンコウの赤樂(「鵺」は見れなかったが)「寒菊」・「山人」・「僧正」と 黒樂 「青山」・「木下」・「升」・「荒磯」・「寿老人」
本阿弥光悦の(飴釉樂 「紙屋」も…) 黒樂 「村雲」・「雨雲」と 赤樂 「乙御前」・「弁財天」・「加賀」 そして白樂が(「不二山」・「白狐」と3碗のうち) 「冠雪」
その他 当代吉左衛門さんの作が、フランスでの作陶分も含めて多数と、次期16代 篤人さんの作、そして弟の樂雅臣さんの彫刻 … 表千家不審菴の春屋宗園 賛・長谷川等伯 筆 「千利休像」 まで…)
大展覧会 であったことは間違いない。
はじめたばかりのインスタグラムに 写真を上げたこともあり、
帰りの車内では スマホの電池が切れ、幸いとばかり 展覧会の図録に目を通した。
京都国立近代美術館の松原龍一さんや ご当代が語っているように、
樂焼茶碗は、利休の時代から現在にいたるまで 「今焼茶碗」 であり続け、
だからこそ 両近代美術館で開催することに意味がある…
とか
一子相伝の 「不連続の連続」性 であるとか
(見ていないので よく解らないけれど)
中谷美紀さんが語る 映画「利休にたずねよ」 の万代屋黒の話とか
国際交流基金が1997年以降 世界に樂焼を紹介していく逸話であるとか
挿入される話が いちいち面白いのだけれど、
なかでも
当代と 坂東玉三郎さんの対談 「不連続の連続、作為と無作為、そして宇宙」 の中で、
高麗茶碗をひきあいに出し、
「柳宗悦ら民藝運動の人たち」 が 「長次郎は要するに 『無作為を装っている』。…
一方で、民藝のものはほんとうの意味で無作為、無心だ」…
と評したこと に触れ、
当代が
「私は、民藝のものには作為がない、というのは一つの幻想だと思うんです。人間は作為して、生きてゆくものなんです。」
「無作為を重んじる気持ちもわかりますが、作為、無作為よりも大切なものは、人間の葛藤だと思うんです。」
「… 作為の有無の問題とは関係なく、民藝のものでも高麗茶碗でも、一つの時代をちゃんと生きた茶碗には、人を感動させる力があると思うんです。喜びも苦しみも悲しみも、そこに生きているから。」
と語った 部分が一番面白かった。
僕は学芸員課程で 河井寛次郎記念館さんには ずいぶんお世話になったが、
あの人柄の寛次郎さん でさえ、たぶん「葛藤」の素地の上に「葛藤」の釉薬を焼き付けて
寛次郎さんなりの 宇宙の創造主となった はずなのだから。
ヒトは それぞれなりの 葛藤の生地をこね 焼き
それぞれなりの宇宙を 外在させ 内在させる のだ。
ちょうどドーナツの円環のように
*
前回、
: 人という1 愛という0 (仮題) : の翌日に 続きを書くつもりが、インフルエンザに罹患し
続いて 仕事がたてこんだために すっかり忘れてしまっていた
続きを 下に
*
大学を3年留年して 帳尻を合わすために 最後の2年は猛勉強して
結果的には 商学部の単位も 博物館学芸員の単位も 池坊短大の単位も 「優秀な成績」 で終えた訳だが、
そんな時間の中でも 特に印象的だった授業が (このブログで何度か書いた)
物理学だか何だか の講義である。 (科目名は忘れてしまった
もの静かでダンディーな先生の (名前は忘れてしまった
口から次々と放たれる 雑談めいた話は どれも新鮮で 驚きに満ちていた。
今では当たり前の 「宇宙人はいて当然。学者はみんな いると思っている」 という話や
「ダークマター」 の話や 「宇宙の終焉」の話 は 当時の僕には驚きでしかなかった。
そんな授業の中でも 一番心に響いたのが、このブログで何度か触れた
「エントロピーの増大」 の話である。
【マーケティングは幻覚剤、 複雑な消費行動は より早く地球を滅ぼせるので どんどんやろう!?】
http://markezine.jp/article/detail/24692
は、
ずっと自分の中で 折り合いがつかなかった 「宇宙の法則」 と 「なぜヒトは生かされ続けるのか?」
という問題が 見事に溶け合った 記事である。
今回も (元記事が削除されたこと時のことを考慮して) 自分なりにここに要約するつもり だったが、
あまりにも遅くなったので もう止めよう
先日、 「茶碗の中の宇宙 -樂家一子相伝の芸術‐」 展 を見学して、
宇宙のこと を思い出した。美学のこと を思い出した。
このブログがほったらかしだった ことを思い出した。
*
まず、展に少し触れると、
公式ブログの方に http://www.bansui.jp/diary-detail/127?category=5 「一子相伝」 については書いたが、
(また、作品リストを 同じく公式ブログの http://www.bansui.jp/diary-detail/129?category=2 に書いたが)
重要文化財・利休所持 等のそうそうな顔ぶれが集う
(ざっと挙げても…
長次郎の黒樂 「大黒」・「万代屋黒」・「ムキ栗」・「禿」 ・「シコロヒキ」・「あやめ」・「俊寛」・「面影」・「杵ヲレ」 ・「太夫黒」・「本覚坊」・「万代」と 赤樂 「無一物」・ 「白鷺」・「太郎坊」・「次郎坊」・「一文字」
ノンコウの赤樂(「鵺」は見れなかったが)「寒菊」・「山人」・「僧正」と 黒樂 「青山」・「木下」・「升」・「荒磯」・「寿老人」
本阿弥光悦の(飴釉樂 「紙屋」も…) 黒樂 「村雲」・「雨雲」と 赤樂 「乙御前」・「弁財天」・「加賀」 そして白樂が(「不二山」・「白狐」と3碗のうち) 「冠雪」
その他 当代吉左衛門さんの作が、フランスでの作陶分も含めて多数と、次期16代 篤人さんの作、そして弟の樂雅臣さんの彫刻 … 表千家不審菴の春屋宗園 賛・長谷川等伯 筆 「千利休像」 まで…)
大展覧会 であったことは間違いない。
はじめたばかりのインスタグラムに 写真を上げたこともあり、
帰りの車内では スマホの電池が切れ、幸いとばかり 展覧会の図録に目を通した。
京都国立近代美術館の松原龍一さんや ご当代が語っているように、
樂焼茶碗は、利休の時代から現在にいたるまで 「今焼茶碗」 であり続け、
だからこそ 両近代美術館で開催することに意味がある…
とか
一子相伝の 「不連続の連続」性 であるとか
(見ていないので よく解らないけれど)
中谷美紀さんが語る 映画「利休にたずねよ」 の万代屋黒の話とか
国際交流基金が1997年以降 世界に樂焼を紹介していく逸話であるとか
挿入される話が いちいち面白いのだけれど、
なかでも
当代と 坂東玉三郎さんの対談 「不連続の連続、作為と無作為、そして宇宙」 の中で、
高麗茶碗をひきあいに出し、
「柳宗悦ら民藝運動の人たち」 が 「長次郎は要するに 『無作為を装っている』。…
一方で、民藝のものはほんとうの意味で無作為、無心だ」…
と評したこと に触れ、
当代が
「私は、民藝のものには作為がない、というのは一つの幻想だと思うんです。人間は作為して、生きてゆくものなんです。」
「無作為を重んじる気持ちもわかりますが、作為、無作為よりも大切なものは、人間の葛藤だと思うんです。」
「… 作為の有無の問題とは関係なく、民藝のものでも高麗茶碗でも、一つの時代をちゃんと生きた茶碗には、人を感動させる力があると思うんです。喜びも苦しみも悲しみも、そこに生きているから。」
と語った 部分が一番面白かった。
僕は学芸員課程で 河井寛次郎記念館さんには ずいぶんお世話になったが、
あの人柄の寛次郎さん でさえ、たぶん「葛藤」の素地の上に「葛藤」の釉薬を焼き付けて
寛次郎さんなりの 宇宙の創造主となった はずなのだから。
ヒトは それぞれなりの 葛藤の生地をこね 焼き
それぞれなりの宇宙を 外在させ 内在させる のだ。
ちょうどドーナツの円環のように
*
前回、
: 人という1 愛という0 (仮題) : の翌日に 続きを書くつもりが、インフルエンザに罹患し
続いて 仕事がたてこんだために すっかり忘れてしまっていた
続きを 下に
*
大学を3年留年して 帳尻を合わすために 最後の2年は猛勉強して
結果的には 商学部の単位も 博物館学芸員の単位も 池坊短大の単位も 「優秀な成績」 で終えた訳だが、
そんな時間の中でも 特に印象的だった授業が (このブログで何度か書いた)
物理学だか何だか の講義である。 (科目名は忘れてしまった
もの静かでダンディーな先生の (名前は忘れてしまった
口から次々と放たれる 雑談めいた話は どれも新鮮で 驚きに満ちていた。
今では当たり前の 「宇宙人はいて当然。学者はみんな いると思っている」 という話や
「ダークマター」 の話や 「宇宙の終焉」の話 は 当時の僕には驚きでしかなかった。
そんな授業の中でも 一番心に響いたのが、このブログで何度か触れた
「エントロピーの増大」 の話である。
【マーケティングは幻覚剤、 複雑な消費行動は より早く地球を滅ぼせるので どんどんやろう!?】
http://markezine.jp/article/detail/24692
は、
ずっと自分の中で 折り合いがつかなかった 「宇宙の法則」 と 「なぜヒトは生かされ続けるのか?」
という問題が 見事に溶け合った 記事である。
今回も (元記事が削除されたこと時のことを考慮して) 自分なりにここに要約するつもり だったが、
あまりにも遅くなったので もう止めよう